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インタビュー

2014年2月6日

プロフィール

赤田 義郎 (株式会社ビームス)

あかた よしろう◎マガジンハウスにて男性情報誌『平凡パンチ』『BRUTUS』」の編集などを経て株式会社セガ・エンタープライゼス入社。AM3研で企画課長を務める。セガ退社後、現在は株式会社ビームスのコンプライアンス推進室室長を務める。AM3研時代にプロデューサーとして関わった作品は『ばくばくアニマル』『ファンキーヘッドボクサーズ』『LAST BRONX -東京番外地-』。

 
AM2研専属のPRマンを
鈴木裕さんに紹介

――    赤田さんと『バーチャファイター』の関係というのはどういったものなのでしょうか?

赤田義郎(以下、赤田)    『バーチャファイター』の前に、(鈴木)裕さんとの関係からですね。裕さんは、ゲームを作る人間としての功績はみなさんが語っているように多大なものがあると思うのですが、私が裕さんをすごいと感じた一番のところは、アーケードゲームに対してPRを入れるという発想があったところです。あの頃のアーケードゲームはそれほど一般的ではなく、家庭用ゲームの雑誌でもあまり記事にしてもらえないような、マニアのものというイメージがありました。そうした状況を変えるためにPRを入れたいと裕さんは考えたのでしょう。当時のセガにはもちろん宣伝部なり広報部といったものがあったにもかかわらず「AM2研に専属のPRマンを入れたい。誰か適した人材はいないか」という相談を裕さんから受けたことがはじまりです。

――    ゲームを作るだけではなく、プロモーションまで考えるというのは開発者らしくない発想とも言えますね。

赤田    そうですね。開発者としての裕さんはとても素晴らしい。でも、プロデューサーとしての鈴木裕も画期的だったと思います。今の時代では当たり前のことかもしれないけれど、当時のアーケードゲームにPRを入れるという発想は他の誰も持っていませんでした。元々雑誌の編集者をしていたこともあって、私に相談してくれたのでしょうね。AM2研のボスが他部署の一スタッフに相談するなんてありえないことですから、光栄に感じましたし、ベストなPRマンを紹介できたのでよかったです。もちろん、自分が紹介した以上、フォローせねばとも思っていましたが、私のフォローなど必要ないぐらいそのPRマンは力を発揮してくれました。『バーチャファイター2』からの世間への広がりは、そのPRマンのおかげだと思います。『バーチャファイター』というゲームは開発者が作ったものですが、『バーチャファイター』というシーンはそのPRマンがいなければ作り出せなかったでしょう。自分の部署にPRを入れることはセガ社内ではイレギュラーで軋轢もありました。ただ、そこに着目して実行した裕さんのプロデュース力は素晴らしかったと思います。

――    赤田さんにとって『バーチャファイター』に関する思い出に残っていることはありますか?

赤田     大きく分けて2つあります。1つは初めて見た時、もう1つは自分も3D格闘ゲームを作ったときですね。

――    初めて見た時はどのような印象でしたか?

赤田    モニターの中のポリゴンの人間をレバーとボタンで自由に動かせることに、新しい味覚が生まれたような衝撃を受けました。既存の味を組み合わせた新しい料理ではなく、新しい味覚=感覚。私は大学の頃、情感デザインや拡張現実を学んでいて、多くの研究やビデオアートを見てきましたが、『バーチャファイター』のそのすべてを超えた新しい感覚の提示に驚愕しました。

――    その後、ご自身で3Dゲームを作ることになりますが。

赤田    最初、3D格闘はアーケードゲームの中でも聖域、触っちゃいけないものだと思っていました。『ファイティングバイパース(※1)』なども作られましたが、全部AM2研だったので、同じ会社でも触ってはダメだと。なので、まずはパズルゲーム『ばくばくアニマル(※2)』を作って、その次にやっと3Dに手を出して『ファンキーヘッドボクサーズ(※3)』を作りました。『ファンキーヘッドボクサーズ』を作ったことで、『バーチャファイター2』が秒間60フレームを維持して、処理落ちせずに動かし続けていることが、とてつもなくすごいことだと実感しました。これは、今の『バーチャファイター5』を見ていても感心します。そう、『ファンキーヘッドボクサーズ』を作った後に、AM3研でも3D格闘を作ってみたいというスタッフたちの声が上がったので、それなら作ってみようかという流れになりました。

――    実際に作ってみていかがでしたか?

赤田    当時のAM3研でゲームを作っていたスタッフみんなゲームを作ることに夢中で、邪念がなかった。でも、私はゲーム以外の場所からセガにきたせいか邪念があって、「本当にバーチャに勝てるのかなあ」と、そんな気持ちがありました。他のスタッフは夢中で作っているのに、私だけはそういうことを考えてしまう。誰にも言いませんでしたが、みんなのように夢中になりきれない劣等感がありました。

――    でも『バーチャファイター』に勝ちたい思いはあったと。

赤田    ありました。『バーチャファイター』にどうやれば勝てるか、入力から世界観までスタッフみんなで必死に考え抜いた結果が3D武器格闘『ラストブロンクス(※4)』です。『バーチャファイター』とは違う部分でリアルを追求し、ゲーム内広告であったり、実在する場所をステージにしたり、ストリートのコたちが着ているファッションを取り入れたり。リアルに見せるために虚実入り混じったさまざまな仕掛けをしました。世界観にプラスして、動きのリアルさを出すために黒澤というキャラクターを入れました。通常、3D格闘のキャラクターたちのモーションは、何かの武術やスポーツと結びついているところを、黒澤は町の喧嘩。武術やスポーツのように洗練された動きではないので、技がヒットするまでに余計なモーションが山ほどあって、バランスを担当したスタッフは大変だったかもしれない(苦笑)。投げのコマンドを入れると、頭を持って引きずりまわし顔面から地面に叩きつける。投げになっていませんが、リアルな喧嘩を再現しました。それと、システムの個性として、すべての技のモーションをキャンセルできる「アタックキャンセル」を搭載して、駆け引きに緊張感がでるようにしました。

 
『バーチャ』に負けたら辞めます
セガにいた3年は夢の中みたいだった

――    『ラストブロンクス』を作っている時に、『バーチャファイター』に敵対するような気持ちもありましたか?

赤田    敵ではなく高い壁でした。みんな『バーチャファイター』をプレーヤーとして大好きで、開発者として尊敬していた。でも、自分で作るならこうするのに、こうしたらもっと楽しんじゃないか、そんなみんなの思いが形になったのが『ラストブロンクス』です。そう、『ラストブロンクス』を作っているときに『ファミ通』の取材があって、そこで「『バーチャファイター』に勝てなかったらセガ辞める」と言ったんです。先ほども言いましたが、邪念や劣等感で、一緒に作っているスタッフに気合負けしている自分が許せなかった、オレも『ラストブロンクス』に命かけているぞ! という気持ちだったのでしょう。結果として勝てなくて本当に辞めてしまった。若かったとはいえ、バカですよね(笑)。

――    ここは『バーチャファイター』に勝っていた、という部分はありましたか?

赤田    部分部分では胸をはれるところはありますが、ゲームは部分を評価するものではなく、パッケージとして評価されるものですから。今、冷静に考えると『バーチャファイター』に立ち向かうって考えが間違いだったのかもしれません。ただ、あの頃は若かったし、熱かった。正面から全力で勝負を挑んだのですから悔いはありません。

(20周年を迎えた『バーチャファイター』へのメッセージ)
自分がセガにいた3年間は短かったけれど、セガの中で、開発者として『バーチャファイター』と戦うことができたことは、光栄であり、とても誇らしいことだと思っています。20周年、おめでとうございます。
(注釈)
※1 1993年に稼動開始の3D対戦型格闘ゲーム
※2 1995年に稼動開始のパズルゲーム
※3 1996年に稼働開始された3D対戦型格闘ゲーム
※4 1996年に稼働開始された3D対戦型格闘ゲーム
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