2013年12月11日
鈴木 裕 (株式会社Ys Net 代表取締役)
すずき ゆう◎1958年生まれ。1983年岡山理科大学理学部電子理学科卒業。同年、株式会社セガ・エンタープライゼス入社。『ハングオン』『スペースハリアー』『アウトラン』『アフターバーナー』など、ディレクターとして数々のアーケードゲーム作品でヒットを生んだのち、1993年『バーチャファイター』をリリース。『3tb』まで同タイトルのディレクターを務める。1998年には「1998コンピューターワールド・スミソニアン・アワード」(アメリカ・スミソニアン協会)日本ゲーム業界初の「情報・技術イノベーション 常設研究コレクション」に認定され、「1998イノベーションコレクション」として関係映像と資料が永久保存される。2008年に、株式会社Ys Netを設立、代表取締役就任。また、株式会社セガの特別顧問を務める。
―― 20周年を迎えた『バーチャファイター』ですが、どのような経緯で生まれたゲームなのでしょうか。
鈴木裕(以下、鈴木) 『バーチャファイター』の最初の一滴って言うのが、『バーチャレーシング(※1)』のピットクルーなんですね。クルマっていうのは動くところが少なくて、動物の関節に例えると、動くところに対してひとつの関節しかないという単純な構造をしている。それを3Dでやったから、次は3Dで多関節をやりたかった。あの当時は割り算を使っちゃダメなくらいの非力なハードだったけど、自分の中でシミュレーションしてみて、30~32個くらいの関節で人間を動かせそうだということがわかったので、『バーチャレーシング』のピットクルーのところでテストをしたのがはじまりです。
―― それが『バーチャファイター』に繋がると。
鈴木 次の目標はサッカーとかラグビーをやりたかったんだけど、選手の数が多い競技だと、表現しなければならないキャラクターの数が多すぎて、計算量がどうやったって間に合わない。「人間ふたりでできること」にしぼり、ボクシングとか格闘とか、という流れになっていきました。
―― そもそも格闘ゲームを作ろうという発想ではなかったのですね。
鈴木 1991年にカプコンの『ストリートファイターⅡ(以下、ストⅡ、※2)』がヒットして、社内でもことあるごとに「セガにはストⅡみたいなものがない」って言われていたから、『ストⅡ』にぶつけるものを作ればいいのかなっていうマーケット的な需要と、3Dで人体を表現したいっていう自分の興味の方向を合わせたところに格闘ゲームがあったんですよね。でも『ストⅡ』がヒットした後って、それにあやかろうとしたタイトルが600以上あったんですよ。それだけあっても『ストⅡ』を超えたものがない。だから反対意見も多かった。最低限、使った開発費くらいは回収できるっていう自信ぐらいはあったので、やらせてほしいと言った記憶があります。
―― 『バーチャファイター』がヒットして、変わったことはありましたか?
鈴木 テクスチャマッピングのチップの開発、『バーチャファイター』の制作と『バーチャファイター2』制作に向けての中国取材(※注)を同時にやっていて、94年には『デイトナUSA(※3)』(プロデューサーとして参加)、『バーチャコップ(※4)』(企画、プロデューサーとして参加)もやっていたので、興味は常に次の事、新しい事でした。だから、ヒットしても基本何も変わりません。
―― 『バーチャファイター2』ではテクスチャマッピング、モーションキャプチャーといった、新たな技術も話題を呼びました。
鈴木 モーションキャプチャーは当時、医療関係ぐらいでしか使われていなかった技術で、それを初めてゲームに応用しました。テクスチャマッピングのチップは当時の三大軍事シミュレーション会社しか持っていなかった技術。でも、ダメ元で打診してみようと思って(笑)。アメリカの軍事産業の最高機密にあたる最新のテクノロジーを、普通の日本のゲーム会社が使わせてくれって言ったら、やりましょうとなったんですよね。ソ連が崩壊して、アメリカの軍事シミュレータの産業は国からではなく民間を相手にしなければならなくなったところだったから、タイミング良かったですね。でも、社内からはチップ1つに出せる予算は5000円、向こうは数十億円のジェット戦闘機のシミュレータに積んでいるチップだから値段はつけにくいけど……大体2億円くらいって言っていて、量産効果で安くするって言っても、この差を埋めるのが大変でした(苦笑)。でも、最終的にゲームがヒットして、量産効果が生まれ実用になりました。
―― 新しいことができるツールや、効率化できるシステムを積極的に取り込むために、ゲーム業界以外にもアンテナを張っていたんですね。
鈴木 結局、クリエイターの人がやるべきことって人間しか出来ない部分なんです。急いでいて人間がやったほうが早い、となれば仕方なくやるけれども、機械ができることは全部機械に任せたい。機械を買えば済むことだったら買って済ませる。理想論で言うと、考えるところだけ人間がやって、他は機械に任せるべきです。当時のゲームソフト産業っていうのは新しくて、小規模ならまだしも、20人、30人というプロジェクトを組んだ時にマネージメントするノウハウがゲーム業界になかった時代で、IBMの管理の仕方を参考にして取り入れたり、ゲーム開発と同時に組織論についても考えていました。
―― その後、『バーチャファイター』は現在の『5』まで続いていきますが、『1』や『2』の頃に、『5』まで構想があると発言されていましたが、真意についてお聞かせください。
鈴木 技術的な部分であったり、ひとつのプロジェクトの予算やニーズでやりきれない部分があったり、これは5つに分けないと無理だぞっていうところから『5』まで構想があると言っていたんでしょうね。細かい構想があったわけではないし、細かく設定することに意味はないと思います。でも、その5種類を全部自分がやるとは思っていなかった。自分は毎回違うものをやりたいタイプだから同じタイトルを5回作るなんて考えられないし、『2』と『3』で自分がやりたいところまでは恐らく行ったので。だからその後続けてくれる人がいて良かったと思っています。
―― 今、改めてお伺いしたいのが、開発者の目線として社会現象とまで言われた『バーチャファイター』のブームをどういう風に見ていましたか?
鈴木 どの業界もスターがいないと地味なままだったりしますから。スタープレイヤーがいっぱい出てきて一体感、盛り上がりを見せたっていうのはすごく良いことでした。ああいう体験を生かして、もっと大規模な状況で、今のネットワーク環境やサーバー環境をうまく利用して世界レベルの1位を決めるものが出来れば楽しそうです。500万人参加の大会とかになったら、その中の1位が持つスター性はすごい。多分、スポーツ選手並みの扱いされたりスポンサーがついたりするんですよ。大会も、決勝戦をビルに投影してやるとか、もっとエンターテインメントにできると思います。お祭りのような、とにかくコンシューマの人達がうらやむようなことをやりたい。だからもっと注目を浴びて、新しいスターが生まれて、変な会社に入るより全然給料良いくらいに稼げるような。ゲームからスタープレイヤー、やって欲しいな。